文化
日本では明治以降に、学問が広く大衆に開かれたものとなっていく過程において、労働者階級の対比語として略語のインテリが用いられるようになっていった。第二次世界大戦以降は学問の大衆化が更に加速し、かつては高等教育として一般大衆には無縁と考えられていた大学や大学院で多くの人が学問を修めるようになり、次第にインテリ層の拡大が起こっている。(駅弁大学を参照)
ただ、更に時代を下がって1970年代以降に、学問が単なる就職のための踏み台として利用されるようになり、他方では知識を持っている事と選民思想が連携して、知識の無い層を否定的に扱うような風潮が出始めた辺りから、世相の上でインテリの在り様に対する否定的な見解が現れはじめた感は否めない。
1980年代に入るとこの就職のための大学という位置付けはますます加速し、同時に学問を修める過程でその理解の度合いを計測するための試験(テスト)が、試験のためだけに学習する、言い換えれば学問を修めるのではなく、大学の教育課程を通過するために学習するという逆転現象が発生するに至り、学徒(学問の習熟過程にある存在)としての学生は減り、単に大学に在籍しカリキュラムを消化するだけの「大学生」の増殖によって、その学習意欲面での質の低下も懸念された。
1990年代に至っては、この「大学生」の質の低下は「小中学校で教わっている筈の基本」すら理解できていない学生の増加や、学習意欲の欠落による活字離れの問題もあり、また大学を出てなお非科学的な物を平気で信じる理科離れの問題もはらんで、「学問」という社会基盤の崩壊が危惧される事態まで発生している。
1970年代以前より所謂インテリが、その学問をもって他を貶めるようなネガティブな印象は存在したが、特に近年ではネット・コミュニティ上にて発生しては物議を醸している学歴差別に見るような、修めた学歴を一つの指標として優位性の誇示を行う人間の存在が、なおもインテリの失墜を招いている。また他方では、インテリが専門分野でのみ優れた知識を有し、それ以外では常識にも欠ける者も見られた事から、オタクとの同一視も発生している。
元よりインテリは知識面での優位性を持ってその地位が確立されるのではなく、知識を用いて社会に奉仕するからこそ、社会から大切にされるという物だけに、そこを履き違えて知識だけを溜め込んだだけの存在は、度々周囲から否定的に扱われては当人らが憤慨するという現象を招いている。
他方では、知識を得る事自体が否定的に扱われ、先に挙げた活字離れ・理科離れを加速させる傾向にある。これらでは本来、学問を修めるべき学生に在ってすら学問から遠ざかるという状況も見られる。この場合では学問を真面目に修めている側が、「ガリ勉」などとして揶揄されるケースもあり、学問の習熟を妨げる事態も発生している模様である。